2018年、有吉修史氏という稀有なアーティストの追体験できる『発狂する裏庭』が、友人の木本氏によって出版されました。これまでに味わったことのない衝撃と異色の一冊に、世界は広く深くまだまだ面白いことがたくさんあるのだなと、思い知りました。
前作『発狂する裏庭』のレビューはこちら↓
◇ 狂気をライブで
あれから1年4ヶ月。
前フリがほとんどなく、再び木本氏の手により発刊された『裏庭の裏庭』。
今回の装丁の写真家も木寺氏によるもので、液体と皮膚の境界が溶け出しているような、灰色の世界。
「世界が終わるとき、色彩は失われすべてが灰色になる」という昔読んだ小説の一節を思い出しました。
そんなゾクッとした感覚を抱きつつ、アーティストの狂気を描いた前書『発狂する裏庭』の続編かなと思い読み始めると、その期待は良い意味で裏切られました。
音楽に例えると、前書『発狂する裏庭』がアルバムなら、本書はライブ盤、あるいはレコーディング風景の記録、という躍動感溢れる内容になっています。
◇『発狂する裏庭』出版の追体験
木本氏がたまたま(引かれるように)訪れた有吉氏が営むヴィンテージショップ『ねずみとひかり』。これをきっかけに両氏のFacebookでのつながりから本書がはじまります。
時系列にそって、『発狂する裏庭』が両氏のあいだで揉まれながら、細胞ができ骨格ができ、血肉ができ、外界に産み落とされ、歩き始めていく様子が両氏のメールのやりとりによってすすんでいきます。
『発狂する裏庭』製作のドキュメンタリーでもありました。
◇「アートってなんなの?」
『発狂する裏庭』製作は、アートをどのような切り口で表現するかの模索でもありました。
両氏のメールのやりとりによって、アートの国内と海外との解釈の違い、アートの取り巻く環境などが浮き彫りにされていきます。アートとは一体なんなのか、ある1つの解を示しています。
この解釈に沿えば、例えば「神がかった誰も見たことのない作品を生み出す」こともアートですし、「作物を育て人に喜んでもらう」こともアートと言えばそれも正解です。
◇ 模倣はパクリ?リスペクト?
Banksyの作品「Kate Moss」は、ポップ・アートの巨匠Andy Warholの有名な作品のひとつ「Marilyn Monroe」をモチーフ(パロディ?)にしたものです。
「Marilyn Monroe」は当時これはアートなのか?と物議を醸し出した作品ですが、これをそのままKate Mossに置き換えるという大胆かつ型破りな表現が高く評価されています。
これらのオリジナル性について、揶揄する人も少なからずいますが、デジタルネイティブの若者にとって「既存のものに手を加え新しい価値を見出す」行為、すなわちサンプリングやリミックスは彼らの世代ではごく一般的であり、むしろ声高に著作権を振りかざす行為はちょっとアレなのかもしれません(苦笑)
アートとは、抽象度の高い概念ですので、彫刻や、インスタレーションなど物質的な作品にとどまらず、行動そして生き方にまで及ぶのです。
また、文中ではアートと親和性の高いファッションについても頻繁に取り上げられています。
ファッションもアートと同様で、使い方によって行為であったり現象を示していたり、抽象度の高い言葉です。
本書では、少しアートの要素に傾倒したファッションの捉え方が示されていますので、
ファッション業界を生業としている方や、深く関わったかた、あるいは本気でファッション業界を目指している方には「これもファッションの側面のひとつ」として読まれた方がいいでしょう。
しかし同時に、ファッションとどのように向き合って行くべきか、深く考えるきっかけになります。
以降の項目は書評ではなく、僕の経験から得たファッションに対する考えに過ぎませんので、スルーしてもらって構いません。
◇ファッションがアートではない理由
「私はアーティストではない」
これはコム・デ・ギャルソンの川久保玲氏の言葉です。
ファッションと一口に言っても、切り取る箇所によって、見える景色はかなり違っています。
僕は、以前からファッションを「ファッションアート」「ファッション」「アパレル(衣料品)」と使い分けてきました。
まず、「ファッションアート」とは、衣服を題材にしたアート作品のことで、そこに思想やアーティストの伝えたいことが表現されており、鑑賞して楽しむもの。着用するものではありません。有名なところでは、ヨーゼフ・ボイス「脂肪のスーツ」。ゴワゴワした厚ぼったいフェルトで作られています。
「ファッション」を簡潔に表すなら、「人の姿の提案」と「心身の拡張」です。
人は服を変えるだけで、あらゆる職種や人柄の印象さえも変化できます。
例えば、医師の白衣や警官の制服など、ひと目で「どんな職業か」わかるものから、サイズの合っていない野暮ったいものを着れば、どこか鈍重なイメージになるし、清潔で配色が良いファッションは親しみがわく。
着る服によって、人は様々な「自分」を演出でき、本来の自分をよくも悪くも拡張して表現できるのです。
様々なデザイナーが、服を着ることで身体の無限の表現にチャレンジします。
例えば、コム・デ・ギャルソンのデビュー時の「ボロルック」「黒の衝撃」は有名ですが、本当に優れていた点は非構築的で「どこにも属さない」という暗黙の表現。身体を解放した点であると考えています。
また、マルタン・マルジェラはアートとファッションの境界を曖昧にした傑出したデザイナーで、立体を平面で表現したり、服に時間経過という軸を加えたり、リメイクという価値観の書換えなど、ファッションの既成概念を次々に破壊しました。
デザイナーたちは、その時代の背景や空気感を切り取ったり、深い思考の先に辿りついた表現で、着る人をさらに未知の領域へ拡張すべく、デザインへと落とし込んでコレクションを重ねていきます。
パリ、ミラノ、ニューヨーク、東京などの世界各地でコレクションが行われ、一旦ごった煮状態になった中から共通項や傑出したアイテムが残り、トレンドへと産み落とされます。
「アパレル」は衣料品。衣料品にはデザイナーらの思想や表現などはありません。むしろ邪魔。
トレンドをキャッチして、売れているものをコピーして大量生産して安価な値段で提供する。
昔は、センスいい服は高価でデパートでしか買えませんでしたが、ファストファッションやショッピングモールにあるブランドなどのおかげで、これらの服たちが容易に手に入るようになりました。
◇ コピーが社会に大きな幸せを生む
服にあまりお金がかけられない(かけたくない)人でも手軽にファッションを楽しめるようになり、浮いたお金を趣味や勉強などに回せる。ファッションの裾野は大きく広がりました。
ファストファッションやショッピングモールブランドをネガティブに言う業界人は多いですが、視座を上げるとコピー&チープブランドは社会にとっては計り知れないほどの幸せを供給しています。
1人しか買えないオリジナルデザインの服、1000人が買えるコピーデザインの服。
「幸せを提供する」という意味では、どちらも本物といえないでしょうか?
デザインがコピーされることについて、ココ・シャネルが語った清々しい言葉を紹介します。
「コピーされるのは認められたってこと。また新しいデザインを考えればいいだけ」
「コピー広まれば、同時にシャネルの名前も広がるわ」
ファッションにおいて、実は「オリジナル」と「コピー」があったからこそ、深く大きく発展しました。この深く結びついた相互作用はなくてはならいない関係といっても過言ではないでしょう。
現在、主なSNS(Facebook, Instagram, Twitter)利用者は、世界では46億人、国内では1.1億人ですが、このSNSによって若者を中心にファッションの使い方が大きく変わりました。
彼らはGucciであろうがZARAであろうが、自分のフィルターでどう見せるかが重要であって、そこにオリジナルかコピーであるかはさほど問題ではありません。
極端な例ですが、いわゆる本物のラグジュアリーブランドで固めたファッションでもセンスの悪い見せ方(←多いですね)と、安価なファッションを上手く合わせてセンスよく見せている人、どちらが共感を得られるかは、火を見るより明らかですね。
この場合、人に影響を与える、人の心を動かすという意味では、どちらがアート的と言えるでしょうか? 本物とは?偽物とは?
◇ 未来のアートはあなたしだい
前作『発狂する裏庭』そして本書『裏庭の裏庭』の読者には、アートやファッションを目指す学生さんも多いと思います。
振り返った時にアートもファッションも、その時代の世相を色濃く反映しているように、これからの未来も人類の歴史を投影していくことでしょう。
未来は未知であるように、これからのアートやファッションもどのように移り変わるのか、あるいはさらに画一化し収束するのか、楽観悲観を含めて楽しみでなりません。
本書『裏庭の裏庭』また前書『発狂する裏庭』を読むことで、あなたの受信機に新たなチャンネルが増えることでしょう。
これからのアートの躍動を見逃さないために。
【 お知らせ 】
『発狂する裏庭』および『裏庭の裏庭』は一般書店、ネットショップなどでは販売しておりません。ご希望される方はメールまたはフォームよりご連絡いただければ手配いたします。